Wednesday, July 19, 2006

Takeshima/Dokdo---1877 attached document

(1) 磯竹島一ニ竹島ト稱ス隱岐國ノ乾位一百二拾里許ニ
(2) 在ス周回凡九十里許山峻ニテツ平地少ツ川三條アリ
(3) 又瀑布アリ然レトモ深谷幽邃樹竹稠密其源ヲ知ル能
(4) ハス唯眼ニ觸レ其キ者植物 ニハ五鬣松….紫再檀
5) 黃蘖…椿…樫…柊..桐..雁皮..梅..竹..マノ竹 ..胡
(6) 蘿…蔔…蒜..款冬..襄荷..獨活..百合..午房..茱萸
(7) 覆盆子..虎杖..アヲキべ..動物ニハ..海鹿…猫…巤
(8) 山雀…鳩…鵯…鶸..鳧..鵜..燕..鷲..鵰..鷹ナヂコ
(9) アナ鳥….四十雀ノ類…其他辰砂岩綠靑アルヲ見ル
(10)魚具ハ枚拳ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス鮑
(11)ヲ獲ルニ夕ニ竹ヲ海ニ投シ朝ニコレヲ上レハ鮑枚葉
(12)ニ著クモノ夥シ其味絶倫ナリト又海鹿一頭能ク數斗
(13)ノ油ヲ得ヘシ次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許
(14)竹島ト同一線路ニ在リ隱岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナ
(15)リ亦魚獸ヲ産ス(omit)

(1) Isonotakeshima is also called Takeshima (=Ullungdo). It is 120 ri north-west of Oki.
(2) The island is about 90 ri around…
(13) Next there is another island called Matsushima (=Tokdo). The area of the island is approximately 30 chyou and shares the same [straight] sealane [as that leading to] (14) Takeshima. It is 80 ri from Oki. Trees and bamboo are scanty. Sea lions live there

(永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋甚吉 越後より歸り 颶風に遇ふて 此地に漂流す
During Eiroku period, a merchant, Ooya Jinkichi in Yonago town in Aumi province of Houki-no-Kuni (Shimane prefecture) was hit by typhoon while he was on the way home from Echigo (Niigata prefecture), and drifted to this island

遂に全島を巡視し 頗る魚貝に富るを識り歸國の日
検使 阿部四郎五郎 [時に幕名に因り米子城に居る] に
彼趣を申出し以後渡海せんと請ふ
安部氏江戸に紹介して許可の書を得たり
實に元和四年五月十六日なり
(my poor translation)
At last he went around the whole island and realized that it was full of fish and shellfish.
On coming back,he reported how it was to the pubic officer,Abe shirougorou(who work now at Maigo by the government order) and asked Abe to issue the permit to sail there.
Abe asked Edo government and got the permit.
It was May 6th.Ganwa year 4 (1618)ponta at occidentalism



磯竹島一に竹島と称す
Isotakeshima is called as Takeshima

隠岐國の乾位一百二拾里許に在り、周回凡十里許
It located at 120-ri northwest of Oki island and its circumfernce is about 10-ri.

山峻険にして平地少なし、川三條あり、又瀑布あり
There are steep mountains with scarce level land, three rivers and a cascade.

然れども深谷幽邃樹竹稠密其源を知る能はす
Deep valleys seem to be a jungle of trees and bamboos

唯眼に觸れ其多き者植物には五(りょう)松 紫稱檀 黄蘗 椿 樫 桐 雁皮
栂 竹 まの竹 胡蘿 蔔 蒜 款冬 ○荷 獨活 百合 牛房 茱萸 覆盆子虎杖 アラキパ
動物には 海鹿 猫 鼠 山雀 鳩 鴨 ○ 鳧 鵜 燕 鷲 鵰 鷹 ナヂコアナ
鳥 四十雀の類 其他 辰砂 岩緑青あるを見る
魚貝は枚挙に暇あらす 就中 海鹿 鮑を物産の最とす
鮑を獲るに夕に竹を海に投し 朝にこれを上れは 鮑 枝葉に
着くもの夥し 其味絶倫なりと 又海鹿一頭 能く 數斗の油を得へし。
(I can’t translate all but these sentences say there are lots of trees, vegetables, birds and animals, shellfish and fish, sea-lions etc…)

次に一島あり 松島と呼ふ
Next, there is one island called Matsushima.

周回三十町許 竹島と同一線路に在り 隠岐を距る八拾里許
Its circumference is 30-cho and it’s on the same line as Takeshima and is 80-ri distant from Oki.

樹竹稀なり 亦魚獣を産す
Trees and bamboos are scarce but it produces fish and animal.

永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋[後 大谷と改む]
甚吉 越後より歸り 颶風に遇ふて 此地に漂流す
In the time of Eiroku, Hoki-koku, Aimi-gun (county)Yonago’s merchant Jinkichi Oya drifted after suffering from typhoon on the way home from Echigo (Niigata prefecture)and reached this land.

遂に全島を巡視し 頗る魚貝に富るを識り
He examined the whole land and got to know that it is rich in fish and shellfish.

歸國の日
検使 阿部四郎五郎 [時に幕名に因り米子城に居る] に
彼趣を申出し以後渡海せんと請ふ
On the day he returned home, he asked government official Shiro-goro Abe, who was staying at Yonago castle on business, permission to take ferequent voyages to the island.

安部氏江戸に紹介して許可の書を得たり
實に元和四年五月十六日なり
Mr. Abe introduced this request to Edo and got the document of permission. It was 16th May the 4th year of Genwa.Pacifist at occidentalism


永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋甚吉 越後より歸り 颶風に遇ふて 此地に漂流す
During Eiroku period, a merchant, Ooya Jinkichi in Yonago town in Aumi province of Houki-no-Kuni (Shimane prefecture) was hit by typhoon while he was on the way home from Echigo (Niigata prefecture), and drifted to this island
As Akipointed out,


The island to which Ooya Jinkichi drifted was Ulleungdo. This was an established fact for Japanese, since, in early Edo period, Japanese fishermen started to visit Ulleungdo according to his information on the island.


And it continues;
遂に全島を巡視し 頗る魚貝に富るを識り歸國の日
検使 阿部四郎五郎 [時に幕名に因り米子城に居る] に
彼趣を申出し以後渡海せんと請ふ
安部氏江戸に紹介して許可の書を得たり
實に元和四年五月十六日なり
(my poor translation)
At last he went around the whole island and realized that it was full of fish and shellfish.
On coming back,he reported how it was to the pubic officer,Abe shirougorou(who work now at Maigo by the government order) and asked Abe to issue the permit to sail there.
Abe asked Edo government and got the permit.
It was May 6th.Ganwa year 4 (1618)


attached chart of the document
opp
(マノ島=間の島=カンノ島→観音島)

島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)
Yahoo! 掲示板 #2284 2001年6月24日

  竹島=独島の帰属問題を考えるうえで、明治期に太政官が竹島(鬱陵島)
と松島(竹島=独島)を放棄した事実は重要なので、そこにいたるまでの経過
を資料中心にみていきたいと思います。それらの資料は量がかなりあるので、
しばらくはこれに専念したいと思います。

  太政官が竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)の領有問題を考えるきっか
けになったのは、内務省の地理寮が地籍を編纂するために、島根県に「竹島」
なる島の情報を照会したのがきっかけでした。
  その地理寮の伺い書は、国立公文書館に保管されている『公文録』内務省
之部(注1)の中に、島根県からの伺い書(注2)の添付文書・乙第28号と
して記録されました。その原文は(注3)に記しますが、これはなにぶん文語
体で読みにくいので、この際、私なりの口語訳をつくってみました。下記に誤
りなどがありましたらご指摘ください。

       --------------------
内務省の地理寮から島根県宛の伺い書(口語訳)
           (島根県伺い書の添付文書・乙第28号)
  ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があ
ると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺
い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。
  加えるに、地籍編制に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、な
お念のためご協議をお願いします。以上の件、五条の適用となります。
  かくなる次第で、古い記録や古地図などを調べていただき、内務省本省へ
お伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。

  明治九年十月五日 地理寮第十二番出仕 田尻賢信
           地理大属      杦山栄蔵
 島根縣地籍編纂係御中
       --------------------

  うえの文書をそえ、島根県は内務省に伺い書を提出しました(注2)。そ
の口語訳を下記に記します。

       --------------------
 「日本海内にある竹島他一島の地籍編纂方法に関する伺い書」
                       (口語訳)
  貴省(内務省)の地理寮職員が地籍編纂確認のため本県を巡回したおり、
日本海内にある竹島調査の件で別紙乙第28号のような照会がありました。
  この島は永禄年間(1558-1569)に発見されたそうですが、旧鳥取藩のとき、
元和4年(1618)から元禄8年(1695)までおよそ78年間、同藩領内伯耆(ほう
き)国の米子町の商人・大谷九右衛門と村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て、
毎年渡海し、島の動植物を持ち帰って内地で売却していました。これについて
は確証があります。現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙の
ように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます。
  今回、全島を実検のうえ、詳細をそえて記載すべきところですが、もとよ
り本県の管轄に確定したものでもなく、また、北海百余里を隔て船路もはっき
りせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記
など詳細を追って申し上げます。
  しかして大勢を推察するに、管内の隠岐国の北西に位置し山陰一帯の西部
に付属するとみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件は
どのように取りはからうべきか御指令をお伺いします。
  明治九年十月十六日 島根県参事 境二郎
  内務卿 大久保利通殿
       --------------------

  この文書に、島根県は独自に竹島外一島について調査し、その資料も添付
しましたが、それらは次回以降に紹介します。

(注1)『公文録』内務省之部一、第25巻、明治10年3月
  以下の詳細は、titleist_userさんの #1508より引用
 件名:日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
 件名番号:16
 作成部局:太政官
 作成年月日:明治 10年 03月
 請求番号:1-2A-010-00・公-02032-100
 マイクロフィルム番号:公-256-1345

(注2)日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
 御省地理寮官員地籍編纂莅檢ノ為メ 本縣巡回ノ切(注4) 日本海内ニ在ル
竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号ノ通リ照會有之候處 本島ハ永禄中發見
ノ由ニテ 故鳥取藩ノ時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯
耆國米子町ノ商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者舊幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海
島中ノ動植物ヲ持歸リ内地ニ賣却シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書舊状等持傳ヘ
候ニ付 別紙原由ノ大畧圖面トモ相副 不取敢致上申候 今回全島實檢ノ上 委曲
ヲ具ヘ記載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸
隔シ線路モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキ非ラサレハ 右大谷某 村川
某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國
ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載
シ地籍ニ編纂スル等ノ儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也
  明治九年十月十六日 島根縣参事 境二郎
  内務卿 大久保利通殿

(注3)第二十八号
 御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥
取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加
フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條
右五條ニ照準 而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也
  明治九年十月五日 地理寮第十二番出仕 田尻賢信
           地理大属      杦山栄蔵
 島根縣地籍編纂係御中

(注4)原文で切は[石切]を1字に組み合わせた字。今後も同様の表記とする


................................................................................
1876年(明治九年)10月、
内務省地理寮は地籍編纂のため、
島根県に対して竹島(鬱陵島)について照会した。
これに対して島根県は、
「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出した。
○○○○○
日本海内竹島他一島地籍編纂方伺

竹島所轄の儀に付 島根県より別紙伺出取調候慮該島之儀は
元禄5年朝鮮人入島以来別紙書類に適採する如く
元禄9年正月第一号旧政府評議の旨意に依り二号譯官へ達書
3号該國来東四号本邦回答及び口上書等の如く
則元禄十二年に至り夫々往復相済本邦関係無之相聞侯
得共版図の取捨は重大之事件に付
別紙書類相添為念 此段相伺侯也

内務卿大久保利通 代理
明治十年三月十七日 内務少輔 前島密

右大臣 岩倉具視殿


伺之趣 竹島外一島之儀 本邦関係無之儀と可相心得事
明治十年三月廿九日


(明治10年=西暦1877年)
----------------------------------------------------

この文書に添付された別紙書類とは、以下の内容のようである。
--------------------------------------------------------
磯竹島一に竹島と称す
隠岐國の乾位一百二拾里許に在り、周回凡十里許
山峻険にして平地少なし、川三條あり、又瀑布あり
然れども深谷幽邃樹竹稠密其源を知る能はす
唯眼に觸れ其多き者植物には五(りょう)松 紫稱檀 黄蘗 椿 樫 桐 雁皮
栂 竹 まの竹 胡蘿 蔔 蒜 款冬 ○荷 獨活 百合 牛房 茱萸 覆盆子虎杖 アラキパ
動物には 海鹿 猫 鼠 山雀 鳩 鴨 ○ 鳧 鵜 燕 鷲 鵰 鷹 ナヂコアナ
鳥 四十雀の類 其他 辰砂 岩緑青あるを見る
魚貝は枚挙に暇あらす 就中 海鹿 鮑を物産の最とす
鮑を獲るに夕に竹を海に投し 朝にこれを上れは 鮑 枝葉に
着くもの夥し 其味絶倫なりと 又海鹿一頭 能く 數斗の油を得へし。

次に一島あり 松島と呼ふ
周回三十町許 竹島と同一線路に在り 隠岐を距る八拾里許
樹竹稀なり 亦魚獣を産す
永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋[後 大谷と改む]
甚吉 越後より歸り 颶風に遇ふて 此地に漂流す

遂に全島を巡視し 頗る魚貝に富るを識り歸國の日
検使 阿部四郎五郎 [時に幕名に因り米子城に居る] に
彼趣を申出し以後渡海せんと請ふ
安部氏江戸に紹介して許可の書を得たり
實に元和四年五月十六日なり
--------------------------------------------------------
島根県の報告を受けた内務省は
「版図の取捨は重大の事件」であるため、1877年太政官の判断を仰ぐことにした。
その審査では、「本邦関係これ無き義と相心得べき事」として、竹島(鬱陵島)と外一島は日本領ではない、、、と言う結論が下された。toron

要するに、
1876年10月の文書では、ウルルン島(ないし観音島)について、
1877年文書では、一つはウルルン嶋、もう一つはウルルン嶋ないし独島について語っている。ここが混乱のもと、
松島の記述については、
(あ)地図および、記述された距離からは独島である可能性が高い
(い)それ以外の記述からはウルルン島である可能性が高い。
(う)1876文書を考慮にいれる観音島である可能性もある。
1877年回答文書では、ウルルン島と外一島であるが当該外一島について、
(1)全文書松島を指す、この場合(あ)(い)の両義性が継承される。
(2)松島と書かずに、あえて、外一島とした、未だ名前がないとしているところから、観音島であるとも考えられる。
いずれにせよ、混乱している。
また、いずれにせよ、政府内部文書であり、朝鮮の独島の実効支配があったわけではなく、またそれを認めたものでもないの権限とは無関係である。
また、1905年編入があるので、これまた権限とは無関係となる。

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