Wednesday, March 28, 2007

基礎からわかる「慰安婦問題」 読売新聞

I hope somebody will translate the article.
(UPDATE
see also Were “Comfort Women” Actually “Forcibly Taken away to War Zones” against Their Will? via Anpontan)



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Comfort station originated in govt-regulated 'civilian prostitution'

The Yomiuri Shimbun

Controversy over the so-called comfort women has been inflamed again. The U.S. House of Representatives has been deliberating a draft resolution calling for the Japanese government to apologize over the matter by spurning the practice as slavery and human trafficking. Why has such a biased view of the issue prevailed? The Yomiuri Shimbun carried in-depth reports on the issue Tuesday. The writers are Masanobu Takagi, Hiroaki Matsunaga and Emi Yamada of the political news department. Starting today, The Daily Yomiuri will carry the stories in three installments.


To discuss the comfort women issue, it is indispensable to understand the social background of the time when prostitution was authorized and regulated by the government in Japan. Prostitution was tacitly permitted in limited areas up until 1957, when the law to prevent prostitution was enforced.

Comfort women received remuneration in return for sexual services at so-called comfort stations for military officers and soldiers. According to an investigation report publicized by the government on Aug. 4, 1993, on the issue of comfort women recruited into sexual service for the Japanese military, there is a record mentioning the establishment of such a brothel in Shanghai around 1932, and additional similar facilities were established in other parts of China occupied by the Imperial Japanese Army.

Some of them were under the direct supervision of the military authorities, but many of the brothels catering to soldiers were privately operated.

Modern historian Ikuhiko Hata, a former professor at Nihon University, says the comfort women system should be defined as the "battleground version of civilian prostitution."

Comfort women were not treated as "paramilitary personnel," unlike jugun kangofu (military nurses) and jugun kisha (military correspondents). During the war, comfort women were not called "jugun ianfu" (prostitutes for troops). Use of such generic terminology spread after the war. The latter description is said to have been used by writer Kako Senda (1924-2000) in his book titled "Jugun Ianfu" published in 1973. Thereafter, the usage of jugun ianfu prevailed.

In addition to Japanese women, women from the Korean Peninsula and Taiwan, both then under Japanese colonial rule, and China, the Philippines, Indonesia and other countries invaded by the Imperial Japanese Army were recruited as comfort women.

Hata estimates that 40 percent of the wartime comfort women were Japanese, 30 percent Chinese and other nationalities and 20 percent Korean.

The total number of comfort women has yet to be determined exactly.

According to a report compiled by Radhika Coomaraswany of the U.N. Commission on Human Rights in 1996, there were 200,000 comfort women from the Korean Peninsula alone. The figure in the report was based on information Coomaraswany had obtained in North Korea. But this report contained many factual errors, and its quoted sources lacked impartiality. Foreign Minister Taro Aso rejected the figure of 200,000 as "lacking objective evidence."

The reasons cited for the need for comfort women and wartime brothels are as follows:

-- To prevent military officers and soldiers from raping women and committing other sex crimes in occupied areas.

-- To prevent venereal disease from spreading through troops who would otherwise contact local prostitutes who did not receive periodic medical checks.

-- To prevent military secrets from being leaked by limiting the women who provided sexual services to officers and soldiers to recruited comfort women.

Such a system and the use of wartime brothels generally are not limited only to the Imperial Japanese military.

The U.S. troops that occupied Japan after the war used brothels provided by the Japanese side. There was a case in which U.S. military officials asked the Japanese authorities to provide women for sexual services. During the Vietnam War, brothels similar to those established for the former Japanese military were available to U.S. troops, a U.S. woman journalist has pointed out.

Hata said: "There were wartime brothels also for the German troops during World War II. Some women were forced into sexual slavery. South Korean troops had brothels during the Korean War, according to a finding by a South Korean researcher."
(Mar. 30, 2007)yomiuri


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■基礎からわかる「慰安婦問題」(解説) :読売新聞 2007年3月27日付 17面
 いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる論議が再び蒸し返されている。米下院では、慰安婦問題を「奴隷制」「人身売買」になぞらえ、日本政府に謝罪などを求める対日決議案の審議が進んでいる。どうしてこうした曲解が広がってきたのか。あらためて論点を整理する。 (政治部・高木雅信、松永宏朗、山田恵美)



◆公娼制度の戦地版
 慰安婦問題を論議するためには、「公娼制度」が認められていた当時の社会状況を理解しておくことが欠かせない。公娼制度とは売春を公的に管理する制度で、戦後も1957年の売春防止法施行まで、いわゆる赤線地帯に限って売春が黙認されていた。
 慰安婦は、戦時中に軍専用の「慰安所」と呼ばれる施設で対価を得て将兵の相手をしていた女性のことだ。政府が93年8月4日に発表した調査報告書「いわゆる従軍慰安婦問題について」によると、32年(昭和7年)ごろ中国・上海に慰安所が設けられた記録があり、45年(昭和20年)の終戦まで旧日本軍が駐屯していた各地に広がった。軍直営の慰安所もあったが、多くは民間業者により経営されていた。現代史家の秦郁彦氏(元日大教授)は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべきだ」と指摘する。
 慰安婦は、従軍看護婦や従軍記者らのように「軍属」扱いされることはなく、「従軍慰安婦」という呼称は存在しなかった。その呼称が広まったのは戦後のことで、作家の千田夏光氏が73年に出版した「従軍慰安婦」 の影響が大きかった。
 慰安婦となったのは、日本人のほか、当時は日本の植民地だった朝鮮半島や台湾の出身者、旧日本軍が進出していた中国、フィリピン、インドネシアなどの現地女性が確認されている。秦氏の推計によると、慰安婦の約4割は日本人で、中国などの女性が約3割、朝鮮半島出身者は約2割だったとされる。
 ただし、正確な総数は不明だ。96年に国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ特別報告者がまとめた報告書には、北朝鮮で受けた説明として、朝鮮半島出身者だけで「20万人」と記載されている。ただ、同報告は事実関係の誤りや情報の出所の偏りが多く、この数字についても、日本政府は「客観的根拠を欠く」(麻生外相)と否定している。

慰安婦や慰安所を必要とした理由は、


〈1〉占領地の女性の強姦など将兵の性犯罪を防ぐ
〈2〉検診を受けていない現地の売春婦と接することで軍隊内に性病が広がることを防ぐ
〈3〉将兵の接する女性を限定し、軍事上の秘密が漏れることを防ぐ
――ためとされている。
 こうした制度や施設の存在は、旧日本軍だけの特別な事例ではなかった。戦後、日本に進駐した米軍は日本側の用意した慰安施設を利用した。米軍関係者が日本当局者に女性の提供を要求したケースもあった。また、ベトナム戦争の際に旧日本軍とそっくりな慰安所が設けられていたことも、米女性ジャーナリストによって指摘されている。
 このほか、秦氏によれば「第2次大戦中はドイツ軍にも慰安所があった。しかも、女性が強制的に慰安婦にさせられたケースもあった。韓国軍も朝鮮戦争当時、慰安所を持っていたことが韓国人研究者の調べでわかった」という。


◆強制連行の資料なし
 問題が蒸し返される根底には、官憲による組織的な「強制連行」があったという誤解が十分には解消されていないことがある。政府は、「旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した」として、旧軍が「関与」したことは率直に認めている。ただし、ここで言う「関与」とは、
〈1〉開設の許可
〈2〉施設整備
〈3〉利用時間や料金を定めた慰安所規定の作成
〈4〉軍医による検査
――などを指すものだ。一方で、慰安婦の強制連行については「公的資料の中には、強制連行を直接示す記述はない」(97年3月18日の内閣外政審議室長の国会答弁)と明確に否定している。これを覆す確かな資料はその後も見つかっていない。
 「強制連行はあった」という見方が広がるきっかけとなったのが、83年に元「労務報国会下関支部動員部長」を名乗る吉田清治氏が出版した「私の戦争犯罪」という本 だ。吉田氏は、済州島(韓国)で“慰安婦狩り”にかかわった経験があるとして、「泣き叫ぶ女を両側から囲んで、腕をつかんでつぎつぎに路地に引きずり出してきた」などと生々しく記述した。しかし、この本は90年代半ばには研究者によって信憑性が否定され、安倍首相も07年3月5日の参院予算委員会で、「朝日新聞(の報道)だったと思うが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたと証言した訳だが、後にでっち上げだと分かった」と述べ、強制連行の証拠にはならないと指摘した。
 また、慰安婦問題が政治・外交問題化する過程で、韓国や日本の一部で、「女子挺身隊」と慰安婦を同一視する誤った認識を喧伝する動きがあったことも、「強制連行」イメージに拍車をかけた。女子挺身隊は、秦氏の「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)によると44年8月から、「女子挺身勤労令」に基づいて12~40歳の未婚女子を工場労働などに動員したものだ。あくまで労働力確保が目的だった。
 慰安所に女性を集めてくる女衒などの仲介業者が、高収入が得られるなどの甘言で誘ったり、慰安所での暮らしを十分説明しなかったりする悪質な手段を使う事例はあった。陸軍省が中国派遣軍にあてた「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(38年3月4日付)では、誘拐に近い募集など問題のある業者がいると指摘し、「軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なき様」と呼びかけている。軍としては、募集が強制的にならないよう注意を払っていたことを示す資料と言える。
 それでも、戦争の混乱の中で、インドネシアでは旧日本軍の「南方軍幹部候補生隊」が抑留されたオランダ人女性を慰安所に送り込んだ事件(スマラン事件)が発生した。事情を知った上級司令部はすぐに慰安所を閉鎖させたが、事件の責任者らは戦後、オランダ軍による戦犯裁判で死刑を含む厳罰に処せられている。


◆あいまい表現の河野談話 「強制連行」の誤解広げる  /歴代首相おわびの手紙 基金から償い金も

 慰安婦問題が政治・外交問題化する大きなきっかけを作ったのは、92年1月11日付の朝日新聞朝刊だった。「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」と報じたもので、「従軍慰安婦」の解説として「開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」とも記述していた。
 宮沢首相(当時)の訪韓直前というタイミングもあり、この報道で韓国世論が硬化。訪韓中、首相は盧泰愚大統領との会談で「慰安婦の募集、慰安所の経営に日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できない」と釈明した。
 政府は92年7月6日、旧日本軍が慰安所の運営などに直接関与していたが、強制徴用(強制連行)の裏づけとなる資料は見つからなかったとする調査結果を、当時の加藤紘一官房長官が発表した。
 その後も韓国国内の日本に対する批判はいっこうに収まらなかったことから、政府は93年8月4日、慰安婦問題に対する公式見解となる「河野洋平官房長官談話」を発表した。ただ、この河野談話は表現にあいまいな部分があり、日本の官憲による強制連行を認めたと印象づける内容になっていた。
 第一に、慰安婦の募集について「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と明記した。第二に、朝鮮半島における慰安婦の募集、移送、管理などは「総じて本人たちの意思に反して行われた」と重ねて記述した。これにより、ほとんどが強制連行だったとの印象を強めることになった。
 強制連行を認めるよう迫る韓国側に配慮し、談話によって問題の政治決着を図ろうという狙いがあった。談話作成にかかわった石原信雄・元官房副長官も後に、「強制連行を立証する資料はなく、慰安婦の証言をもとに総合判断として強制があったということになった」と証言している。
 しかし、この河野談話は慰安婦問題を完全決着させる効果は果たさず、むしろ官憲による「強制連行」という誤解を内外に拡散させる結果を生んだ。
 国連人権委員会のクマラスワミ氏がまとめた報告書では、慰安婦を「性的奴隷」と規定し、日本政府に補償や関係者の処罰を迫ったが、その根拠の一つが河野談話だった。現在、米下院で審議されている決議案の代表提出者マイケル・ホンダ議員(民主党)も、決議案の根拠として河野談話を挙げている。
 日系のホンダ議員が決議案の代表提出者となった背景には、3月16日付本紙朝刊国際面で紹介したように、日系人が相対的に減少傾向にある一方で、中国系や韓国系住民が増加している選挙区事情があるなどと指摘されている。
 95年7月、政府は河野談話を前提に、財団法人「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立。これまで364人の元慰安婦に償い金など合計約13億円を渡した。併せて、橋本、小渕、森、小泉の歴代首相がそれぞれ「おわびの手紙」を送っている。
 河野談話について、安倍首相は06年10月5日の衆院予算委員会で、自らの内閣でも基本的に引き継ぐ考えを示したが、官憲による「強制連行」は否定した。

◇米下院の対日決議案要旨

 日本国政府は、1930年代から第2次世界大戦中にかけてのアジア及び太平洋諸島の植民地および支配の期間中において、世界に「慰安婦」として知られる、若い女性を日本帝国軍隊が強制的に性的奴隷化したことに対する歴史的な責任を公式に認め、謝罪し、受け入れるべきである。
 日本国政府による強制的軍売春である「慰安婦」制度は、その残忍さと規模において、輪姦、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないものであり、身体の損傷、死亡、結果としての自殺を伴う20世紀最大の人身売買事案の一つであった。
 日本の公務員や民間の要職にあるものが、近年、慰安婦の苦難について、心からのおわびと反省を表明した93年の河野官房長官談話の内容を薄めたり、撤回したりすることを願望する旨表明している。
 下院の考えとして、公式の謝罪を日本の首相が公的立場において声明として公にすべきであり、(日本政府が)日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買は決してなかったとのいかなる主張に対しても明確かつ公に反論すべきであることを決議する。(外務省の仮訳よりアジアの真実

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