Isomura Eiichi国を憂い、われとわが身を甘やかすの記(魚拓)
When the war ended, I was the director of public relation in Tokyo
and was ordered by GHQ to do the job of providing "service" . An order of a conqueror was absolute. I was ordered to construct houses for military officers , to do that, I had to confiscate the western style toilets from Japanese house.
On the Christmas eve, I was called on by an officer of GHQ and ordered to report the situation of Yoshiwar, red-light district. Of course, the district was burned to the ground. I was ordered to recruit women and construct houses for GIs. The order was to construct RAA. At first I thought it was something for an indoor athletic place, but it was for " Yoshiwara" as it used to be.
It was Japanese administration's policy at the time for women and children to disperse from Tokyo into rural areas, so labor force was definitely in short. Besides, I used to tell people that foreign soldiers were beasts:naturally, it was hard for me to recruit women to provide such "service"
However among civilians, there was absolute lack of foods and there was a rumor that
a woman sold her body for a piece of chocolate. There was little choice but to recruit women who used to live at the red-light district, promising them to provide them with foods. I persuaded them, saying that you would save the virgin of Japanese women----- I am ashamed of having said that to the women at that time and talking of, and standing for the human right now.
I called the brokers and asked them to do the job, saying it would be for the country.
If Japanese government decided to do something about so called the issue of comfort women at UN for foreign comfort women, how would people interpret my word, "it will be for the country"?
I visited an women who seemed to have provided such "service for this article ;She seems to have been recruited by my order, which in turn was forced by GHQ. She asked me if I could honestlly face the past shame, I had no word to that. Honestly I have no word to say to the fact that I brought them to such a situation.
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【正論】地域改善啓発センター理事長・磯村英一 日本軍だけでない慰安婦問題
[ 1994年09月17日 東京朝刊 オピニオン面 ]
日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、“サービス”を提供する役割を課された。戦勝者の命令は絶対である。僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のためにワシントン・ハイツ等という名の宿舎の建設が命令され、将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。
敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて“ヨシワラ”の状態の報告を命ぜられた。もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、“女性”を集めろということだった。
命令は英語で“レクリエーション・センター”の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。旧“ヨシワラ”のそれであった。
敗戦直後の東京の行政は、女・子供はできるだけ地方に分散するようにという命令が出され、占領軍の兵隊のための宿舎をつくる労力さえも不足の状態だった。しかも外国の兵隊は、鬼畜とさえ教えたのを、改めてそのようなサービスを提供するなどできるものではなかった。
しかし、市民の中には、食べ物も少なく、中にはチョコレート一個で身体を売るような話まで広がっている。やむを得ず焼け残った“地区”の人々に、文字通り、食料を支給すると約束してバラック建ての“サービス・センター”に来てもらった。その理由として、日本の“一般の女性の操”を守るためにといって頭を下げた。こんな犠牲を強いた私自身が“人権”などという言葉を口になど出せるものではないと反省している。
◆「昔の恥を」と詰問される
やむを得ず関係している業者に直接話して、“お国のため”という言葉を使ったことを覚えている。もし仮にいわゆる“慰安婦”問題に関して国連の舞台で、日本政府が外国人の慰安婦に何らかの措置をとる場合、そのような言葉を使ってサービスを求めたことはどうなるのか。この一文を書くために、その当時、私の命令―事実は勝者の強制を背後にして―によって、サービスをしたと思われる人を訪れたが、“昔の恥を思い出させるのか”という返事に返す言葉がなかった。正直にいって、敗戦の中で女性をそのような環境に追いやったことに、返す言葉をもたない。
2 comments:
Mike Honda Double Standard
「米軍が来てただちに宿舎を作れと言われたというのは不思議はない。しかし、45年12月になって焦土と化していたヨシハラに宿舎を作れという命令を受けたというのは不審である。その宿舎というのは米兵のためのものなのか。そうであれば、もっと早いうちに命令が出ていたはずだ。
米軍兵士のために"女性”を集めろ、レクリエーションセンターを作れという「命令」があったという。これはちょっとおかしいのではないか。磯村氏の話では1945年のクリスマス前の命令であったとするが、日本の内務省はすでに敗戦直後の8月18日にただちに『特殊慰安施設協会』(RAA)の設置を決定し、米軍到着前にはすではに第一次の募集を終えているのである。年も押し迫って米軍が慰安施設の増設を命令したというのはおかしい。
そもそもRAAという慰安施設をアメリカの要請も命令もなしに率先して作ったのは日本側なのである。しかも、アメリカは翌年の1月にはそのRAAの閉鎖を命じている。その米軍が年末に慰安施設の増設を命令することはありえない。
この磯村英一というひとは1903年生まれ、新聞記事のときは91歳で、46年前のことを証言している。wikiによると943年7月1日の東京都制施行と同時に渋谷区長に就任し、1945年12月まで務めたことになっている。渋谷区長の任にあるものが東京都の渉外部長をしていたとは首を傾げる。 」
http://tarari1036.hatenablog.com/entry/2013/05/17/215156
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