Sunday, January 31, 2010

【日中歴史研究】南京

Difference in perception of modern history a hurdle to Japanese-Chinese review panel

While a joint Japanese-Chinese panel comprised of academics released a report on the history of the two countries on Sunday, a section addressing the post-war period has not been disclosed due to strong objections from the Chinese members. This turn of events has exposed the limitations and complexities of a project meant to bridge the rift between Japan and China. Meanwhile, portions penned by Chinese academics have shown signs that Chinese academia is moving away from the interpretation of revolutionary history as dominated by the Chinese Communist Party, to a more positivist approach.

Release of the report came over a year later than the initial plan of 2008, which marked the 30-year anniversary of the peace and friendship treaty signed between Japan and China. "The delay was caused by a difference in perception of modern history," one Japanese panel member said. "The Chinese side feared addressing issues that could challenge the legitimacy of the party leadership, such as the Tiananmen incident."

Plans to release notes on the debates held throughout the writing of the report have also been shelved. Some observers see the repeated failures to reach an agreement as the result of pressure applied to panel members from the Chinese government, which considers historical research an important pillar of its "patriotic education."

Both sides agreed that they would undertake the second phase of the joint project, but it has yet to be seen how the Japanese and Chinese public will respond to the latest report. "Stable public sentiment on both sides is imperative to continuing this project," says a diplomat involved in Japan-China relations.

Popular Chinese sentiment toward Japan has improved since the 2005 anti-Japanese demonstrations, which was the catalyst behind the project. It is impossible, however, to include anything in the report that would suggest that China made concessions to Japan regarding the Nanjing Massacre, especially when surviving family members of those who were killed in the incident still live in China.

The section on the Nanjing Massacre includes not only the number of victims, but also a detailed description of the killing, rapes, and pillaging that took place. The extensive explanation of the massacre -- which is in stark contrast to the perfunctory depiction of Unit 731, which carried out germ warfare attacks -- is believed to have been written in response to the existence of Nanjing Massacre deniers in Japan.

Hints of Chinese historians' departure from the "Chinese Communist Party as revolutionary history" line are evident in the report's description of the relationship between the Communist Party and the Chinese Nationalist Party (KMT) in the war against Japan. "There was friction between the two parties, but the more important objective of cooperation in the fight against Japan remained consistent."

In China, there has been a trend to re-evaluate the role of the KMT in the war against Japan as China's relations with Taiwan improve. The joint report, too, dedicates a significant number of words to the negotiations the KMT conducted with major powers on behalf of China and an elaboration on the global state of affairs at the time, and captures the Sino-Japanese War from a broader perspective.

In addition, the report refers to Japan's defeat in the war as "a turning point in history," and that Japan began taking "a step toward peace and development." Such an interpretation clashes with the view held by Chinese "patriots" comprised primarily of youth, who accuse Japan of increasing militarization.

There is a possibility that such historical interpretations will arouse great controversy, and it is likely to be some time before they are reflected in history textbooks and television dramas.

日中歴史共同研究:中国側に変化の兆し 世論への浸透未知数

 31日に公表された初の日中歴史共同研究報告書は、中国側の強い要請で戦後史部分が非公表となり、両国の歴史認識の溝を埋めるために始めた事業の限界と複雑さを露呈する結果となった。一方で、中国側の論文には、中国共産党の役割を軸とする革命史観から脱却して実証主義的に記述する試みもみられ、宣伝色の強かった歴史研究の変化の兆しもみられた。【中澤雄大、北京・浦松丈二】

 研究成果は当初、日中平和友好条約締結30周年に当たる08年中の発表を目指したが、1年以上遅れた。ある日本側研究者は「現代史部分の認識の差が原因。天安門事件の評価など、共産党指導部の正当性を揺るがす問題に触れることを中国側が恐れた」と指摘する。

 論文執筆過程の討議要旨の公表も見送られた。再三の合意不履行は、歴史研究を「愛国教育」の重要な柱と位置づける中国政府が委員に圧力をかけているとの見方も出ている。

 両国は第2期共同研究として継続することで一致したが、両国の国内世論が今回の報告内容をどう受け取るかは未知数だ。日中外交当局者は「継続には双方の国民感情の安定が不可欠」と指摘する。

 中国国内の対日世論は、共同研究のきっかけとなった反日デモ(05年)当時よりは好転している。だが、国内に遺族が生存する南京虐殺事件で日本に譲歩したと受け取られかねない記述は不可能だ。

 南京虐殺については、犠牲者数の根拠だけでなく、虐殺や強姦(ごうかん)、略奪の実態を詳細に描いた。細菌戦を展開した731部隊について簡単に触れた程度なのとは対照的で、日本国内に虐殺自体を否定する意見が存在することを念頭に置いたものとみられる。

 中国側の革命史観にとらわれない記述で注目されるのは、抗日戦争での共産党と国民党との関係性だ。「国共両党の間にいろいろ摩擦が起きているが、両党が協力して日本に抗戦する大局は一貫して変わらなかった」と記述した。

 中国では中台関係改善の流れを受け、抗日戦争での国民党の役割を見直す動きが進んでいる。報告書は、国民党が中国を代表して行った列強との交渉や当時の国際情勢にも多くの紙幅を割き、日中戦争をより広い視野からとらえている。

 日本の敗戦についても「歴史の転換点」と指摘し、「平和発展の道を歩み出した」と評価した。これは日本の「軍国主義化」を警戒する中国の若者を中心とした「愛国世論」とは異なっている。

 だが、こうした歴史研究は国内で論議を呼ぶ可能性もあり、革命史観に基づく歴史教科書や大衆向けドラマに反映されるには相当な時間がかかりそうだ。













【日中歴史研究】南京事件の日本側論文(要旨)
2010.1.31 22:59

 昭和12年12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、翌13日、南京を占領した。
 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。
 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦(ごうかん)、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている。犠牲者数に諸説がある背景には「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。
 日本軍による暴行は外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ、陸軍中央部にも伝えらた。38年1月4日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官あてに「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられた。
 宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(ふりよ)(捕虜)の取り扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、軍紀弛緩(しかん)をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった。(筆者は、波多野澄雄筑波大教授、庄司潤一郎防衛研究所第一戦史研究室長)


【日中歴史研究】南京事件の中国側論文(要旨) (1/2ページ)
2010.1.31 22:53

 日本軍が上海を占領した後、3つのルートから南京攻略を開始し、12月13日、南京は陥落した。敗退した中国軍の大半は捕虜となり、集団で日本軍に殺害された。第16師団の中島今朝吾師団長は12月13日の日記で、数千人の捕虜を処理したと記述した。日本軍の南京における戦闘の報告は敵の数の羅列が多く、捕虜数はほとんど触れていない。日本軍は上から下まで徹底的に捕虜を殺害する方針を実施したことがうかがえる。
 多くの中国兵士が軍服を脱ぎ難民区に隠れたが、日本軍は顔だけで敗残兵を随意に判断し、多くの平民が軍人として殺害された。12月24日、金陵大学の難民所のテニスコートから、一日だけで200~300人が五台山と漢西門外に連れて行かれ、殺害された。
 日本軍が南京郊外の農村部でも市民への虐殺を実施した。金陵大学教授が1938年に行った調査では、南京郊外の一部地域では、被害者総数は3万950人。平均して住民の千人のうち29人が死亡し、7世帯に1人が殺害されている。
 捕虜と平民に対する虐殺以外に日本軍の中国女性に対するレイプも大量に行われ、国際安全区にいた米国人宣教師の記述によれば「私のドイツ人同僚の推測では2万件のレイプ事件があった。私は少なくとも8千件はあると思う。金陵大学周辺だけで100以上の例を詳しく知っている」。その後、性病が軍内で流行することを恐れた日本軍は南京で慰安所を設立し、強制的に多くの中国人女性を日本軍の性の奴隷にした。
南京市内での暴行を見た米国人記者が欧米新聞で報道し、国際社会に大きな衝撃を与えた。1938年2月、華中方面軍司令官の松井石根大将が日本の参謀本部に呼び戻された。だが日本軍が南京占領した翌日、東京では40万人が南京陥落を祝った。南京のニュースは日本では封印され、戦後の東京裁判で日本国民は初めて真相を知った。
 戦後、同盟国と中国が東京と南京で南京大虐殺に関する裁判を行った。東京裁判の判決は「南京占領後の一カ月の間、南京市内と近郊で2万件のレイプ事件が発生。占領後6週間で、南京市内と近郊で殺害された平民と捕虜は20万人以上」と認定した。南京で行われた中国国防省の軍事法廷では「南京大虐殺の中で、集団で殺害された人数は19万人、個別で殺害されたのは15万人余り、被害者総数は30万人以上」と認定している。(筆者は栄維木・社会科学院近代史研究所「抗日戦争研究」編集長)


【日中歴史研究】私はこう読む 現代史家の秦郁彦氏 「日本弾劾色」に変化
2010.2.1 00:10

 南京事件について、中国側の報告書は典拠を明らかにした事実関係の記述にほぼ終始しており、日本の弾劾から始まるプロパガンダ色が強かった従来の歴史論文と比べると、大きく変わったという印象を受ける。
 事件の事実経過に限れば日本側とほぼ同じと言っていいが、大きく違うのは「30万人以上」とする被害者総数だ。報告書では中国側の軍人参戦者を計15万人とし、市民の被害者については、ほぼ唯一の推計である「スマイス報告」から約3万人とする数字を挙げている。しかし、これだと軍人が27万人殺されたことになり、15万人の参戦者をはるかに超えてしまう。
 従来の「30万人」を撤回しにくい中国側が、矛盾を承知で報告書を出したとするならば、中国における歴史研究と公開の自由度はかなり高まってきているといえるのではないか。(談






日中歴史共同研究の報告書要旨<2>…南京事件など
 1月31日発表された、日中歴史共同研究報告書要旨は次の通り(中国側要旨は読売新聞社訳)。


       ◇

 【満州国の実態】

 日本側 抗日ゲリラ活動がなかなか下火にならず、関東軍が徹底的弾圧を加えた。満州国は通貨統一の強力な実現を図り、経済の近代化を促した。鉄道や道路を整備し、石炭、電力、鉄鋼などの生産が大きく伸びたが、住民の生活水準向上を目指すものではなかった。「民族協和」もスローガンに終始し、日本人と満州国人の格差が拡大した。

 中国側 (日本による)通貨改革は実質的には強行された金融略奪だった。日本は(日中戦争後に)満州に対する施政の重点を経済略奪の強化に変えた。満州国は鉱工業に対する統制を実行し、民族業者の参入を厳禁した。日本は太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)後には東北地方の経済資源をほしいままに略奪した。

 【日中戦争】

 日本側 中国に深い傷跡をのこしたが、原因の大半は日本側が作った。(発端となった)盧溝橋における最初の発砲事件は「偶発的」であった。しかし、この事件を好機とみなした関東軍などは蒋介石政権の打倒と華北占領という構想を実行していく。現地軍の行動を抑制できなかった理由の一つは陸軍内の「拡大派」と「不拡大派」の対立にあった。近衛内閣も行き詰まっていた中国政策打開の好機ととらえて容認し、現地解決の努力を押し流した。

 中国側 盧溝橋事件自体の発生は偶然性をもっているかもしれないが、事件はたちまちに日本の全面的な中国侵略戦争を引き起こした。歴史の推移からみれば、事件は必然性をも帯びている。日本には「拡大派」と「不拡大派」との論争があったが、内閣が「華北に対する派兵声明」を公布してから「不拡大派」の声は完全に「拡大派」の主張にかき消されてしまった。

 【南京事件】

 日本側 日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵(ゲリラ)、一部の市民に対する集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦(ごうかん)、略奪や放火も頻発した。被害者数は日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている。原因について、日本側に捕虜の取り扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点などが指摘されている。副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それに伴う指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった。

 中国側 南京軍事裁判所は南京大虐殺で虐殺された人数は19万人以上にも上り、ほかにも散発的に虐殺された者が15万人以上おり、被害者総数は30万人余りと認定した。極東軍事裁判(東京裁判)の判決書によれば、占領後1か月で、南京城内では2万件近い強姦事件が発生した。日本軍は捕虜の数が多すぎて安全面を憂慮し、大量の中国軍人が捕虜になった後、集団的に虐殺された。民間人虐殺の暴行も猛威をふるった。(ある地域の)サンプリング調査によると民間人1000人あたり29人が死亡し、7世帯あたり1人が殺害されている。

 【毒ガス・化学兵器】

 日本側 1938年の武漢・広東攻略戦を通じて毒ガスの効果が実証され、参謀本部は「特殊煙」(あか筒、あか弾、みどり筒)の使用を認めることを各軍に指示し、中国戦線での毒ガス使用が一般化したと言われる。

 中国側 関東軍731部隊と第100部隊は中国人を利用して人体実験を行い、生体解剖まで行った。関東軍はさらに、化学兵器の人体実験を行った。今日もなお東北地方の民衆は日本軍が遺棄した化学兵器の毒物の影響を受けている。1942年、日本軍部隊が金華一帯に出動して細菌を散布し、コレラの流行を引き起こした。

 【中国の犠牲者数】

 日本側 国民政府軍の死者は約132万人、負傷者は180万にのぼる。中国共産党軍の死傷者=失踪(しっそう)者を含む=は58万人を超えると推定されている。

 中国側 完全な統計ではないが、戦争期間中に中国の軍人、人民3500万人余りが死亡、負傷した。

 【終わりに】

 日本側 日中全面戦争は、双方の軍人だけではなく、特に中国の非戦闘員に多くの犠牲を強いた。犠牲の多さや日本軍による様々な「非違行為」は、戦後の日中両国民に、新しい関係構築を妨げる深い傷跡をのこした。日本軍による戦争犯罪を問い、戦後補償を求める運動が世代を超えて展開され、日本政府を相手とした裁判が今日まで続いていることは、そのことを物語っている。

 中国側 中国人民は粘り強く抵抗した。抗日戦争における中国人民の偉大な勝利は、中華民族の同胞全体が団結して奮闘した結果で、反ファシズムの世界とともに努力して同盟国の人民と戦った成果だ。戦争は日本の転換点でもあった。日本のファシストが徹底的な敗北を喫し、日本人民も軍国主義を排除し、平和発展の新たな道を歩み出した。戦争終結は、日中両国に真に新たな平等関係を形成する可能性を与えた。

(2010年1月31日23時40分 読売新聞)

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